どうも非常にお久しぶりです。こちらで今後やっていこうとしていたものの、やることが多くて結局どちらも手つかずですが…時間が結構できたので何か書いてみます。
前にジャニーズ所属グループのカトゥーンの誰だかが脱退するということになり、その理由が「方向性の違い」と発表されました。現代はこういうニュースの反応をネットを通して見ることができるということなんですが、このニュースには特に反響が強かったので見てみると、多かった意見が「アイドルに方向性も何もないだろ!個性なんて、オリジナリティなんてないくせに!ロックバンドでもないくせに!売れるように言われたことをやってるだけだろ!」というのが大半でした。
こうした反応を見たときに、自分はすぐにはピンときませんでした、というのは皮肉でもなんでもなく、そういった概念そのものが自分の頭から消失してうまく自分自身が反応できなかった、という感じでしょうか。
というのも、それはいつしか自分がレコード・ファンになったためで(ここでは敢えてロック・ファンではなく)、こうした世界でもコンポーザーやプロデューサーなどのクレジットというのは非常に重要なのですが、逆にミュージシャンでない彼らもレコードの世界では音を司るキーマンばかりで、そのレコードのアーティストが、自分で曲を作らないアイドルであろうがポップス歌手であろうが、音楽が魅力的であることが第一、という認識があるためなのでした。
自分たちで作曲して歌い演奏する、というのがロックの精神である、という向きは今も昔もないではないでして、今回のアイドルの脱退はそうしたロックの精神との対立軸上にあるために巻き起こる言説で、しかもこれが一般論なようです、同様のコメントの結構な数からすると。ロック音楽は自作自演するべきものであり、ひいては売れるために演らないのだから、オリジナリティ溢れるものなのだから、アイドルの曲なんかと一緒にしちゃ(アカン)、と、オリックスの岡田監督も憤怒の表情を見せている、のかどうかは分かりませんが、少なくとも岡田監督は現役時代に他人の作曲で歌手デビューしているのでせいぜい苦い表情で見守るくらいなのかもしれませんが…!
というわけで、今回は、ロックは自分で曲を作らなきゃいかんのか?という話です。
(岡田監督の続きから)とはいえ、ロック・ミュージシャンがそこまで完全に独り立ちできているのかといえば、ほとんどがそんなことはなく、かのビートルズだって、リンゴ・スターが何か作曲をして披露するたびに、他のメンバーから「それってナントカって曲にそっくりだな!」と言われていたそうで、ついでにソロになってからのジョージ・ハリスン渾身のナンバー「マイ・スィート・ロード」ですら、盗作であるという訴えで敗訴してしまいました。オー・ロード…
アメリカのニルヴァーナと同時期に成功を収めたバンド、マッド・ハニーのメンバーが言うには、コレクションしているパンク・レコードから、誰も知らなさそうで凄くいい部分を使っていた、とのことだそうで、案外こうした手法はロック・バンドが自作する上では結構メジャーなんじゃないかと思っています。それはDJがレコードの音から「テクスチャー」を探す動作と同じで、これはある素晴らしい楽曲の、特にどこが優れているか、というのを探すこと。それはドラムかもしれないしギターかもしれない、ということなんですが、こうしてそのネットで見かけた、一般で言われるロックの優位的精神という神話は崩れ去ってゆくのでした。
ロックが自作自演じゃなきゃいけなくなったのは、実はビートルズのせいなんじゃないか、という意見をどこかで見かけたことがあって、ビートルズが職業作家に頼らず自分たちで作曲し演奏し始めたことで、自分も作曲できる、と勘違いした人たちがあまりに増えてしまった。なんて非常に辛辣なご意見だったのですが、このことをロックが自作曲でなきゃいけない、という観点から見ると、こうした精神性の始まりがまるでビートルズからのように思えてくるのでした。 とはいえ、ビートルズが作曲してきたものの数々も、彼らが過去に愛聴していたレコードから影響を受けて作られたものなのも事実です。これはもちろん他のバンドも同じことですが…。いきなりぽっと生まれるほど作曲の世界はたやすくないようで、今まであったようでなかったのがかの「イエスタデイ」てところでしょうか。ポール自身が、何かの曲に似てる気がするのでほっぽってた、という曲です。これぞ最新のスタンダード、といえるナンバーかもしれません。
それでは、完オリジナルなんて個性なんてロックには存在しないのか、と言われればそうではない、ともいえるのでして、フランク・ザッパは自伝の中で「あなたも作曲できます。その方法を伝授します」と話していて「始めと終わりを自分で決め、その間の空気を揺らせば、あなたはちゃんと作曲したことになります」と言うではありませんか。つまり、これは物凄い極端な例を使って、音楽の懐の深さをフランク氏が説明なさった、ということなのですが、空気流の微細な乱れの差で違っているというのなら、どのバンドのどの演奏も違うものである、という言い方もできるということみたいです。これはロック・ファンというよりレコード・ファン的な発想と言えるのかもしれません(そういうことで先ほどは使い分けていました)。
と、そんな上げ足を取るようなことを書いていては、ロックは人のためにならん。いたち野郎はそんなことだからいつまで経ってもうだつが上がらないのだ、と言われるのではないかとおびえているところですが、おびえているのは自分だけでなく、世のロック・ファン、そしてロック・ミュージシャン自身の何割かも実は「自分がロック・ファン/ロック・ミュージシャンである」ということの証左に奔走し、説明、自己理解をすることに苦闘し、おびえる日々を迎えているのかもしれません。最初の例で出した非ロック・スタイルへの幾多もの攻撃はいわば自己防衛であって、果たしてそこから先、ロックのアイデンティティを守る手段があるかどうかは人それぞれ、となるところ…ミュージシャンの自己防衛としては、ジミ・ヘンドリクスの燃えるギター、変な恰好というのは内気な彼からすれば「他と違わなければならない」という自己防衛であったようで、こうした例は枚挙に暇がないところですが…。
ただいま書籍や資料の多くが倉庫にあるのでとりとめがなくなってしまいましたが、ロックはオリジナリティがある/個性的であるという精神性は、自己防衛の連続体という側面があるのではないか、という拙話でした。
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