またしてもご無沙汰でした。いやはやお疲れモードなので、休みを利用して久々更新…。レコやらは色々聴いてはいたのですが、折角なのでちょっと違う感じで。
最近、久々にThe Kinks「Soap Opera」というアルバムを聴いたのですが、改めてその素晴らしさにジーンときたところでして、それはなんでかというと、今でこそ、当たり前のように名盤カタログには「コンセプトアルバム」なんて言葉が躍っているわけですが、それを達成することの難しさをこの時局に改めて感じているためでした。
というのは、ツイッターをちょいちょい見ていると、日本のある有名なバンドのメンバーのつぶやきが紹介されていて、その内容は「最近、周りから原発をなぜ歌詞に入れない?と言われることが多い。原発について歌わなきゃロックじゃないのか」みたいな感じでした。
ずっと前にも前のブログで書いたことかもしれませんが、ロックは社会的領域の中で、いくつかの立ち位置に属する人たち同士の闘争である、という見方があるそうで、しかし個人的には、広い意味では捉えることができても、この理論だけでは埋もれてる素晴らしいモノが見つけづらい、とも思っています。 しかし、上記のような状態はまさにある領域とある領域の闘争であると言えます。
上記のバンドの人がそんなことを言われはじめたきっかけは、ネットでもちょっと話題になっていた、あるミュージシャンが動画サイトで流した原発に関する歌がまたたく間に広まったことに始まるようです。なんでさっきからミュージシャンの名前を隠すかというと、検索されるのがアレなので(爆) その歌の評判というのは、非難するものも多数ありましたが、賞賛するものの中には「これがロックだ!」とか「勇気がある」という類のものが多かったわけで、まさにこうした感想はロックをある領域の中のものとして捉えているのだと思います。俗な言葉で言い換えれば「反体制」「運動的」なエリア。
そしてこうしたエリアの人々の中には、震災直後に作られた「応援する歌」といったものを「偽善的」「心に響かない」と切り捨て、それがエスカレートすると、先に述べたバンドの人が言われた「なぜ原発について歌わない」と言い、別の領域を非難する「闘争」が生まれる…。これは、僕が体感した結果、こんな感じでした、という具合なので、当てはまるかどうかはまた人次第かもしれませんが、僕の感想としてはこんな感じです。
音楽の枠をとっぱらったはずのロックが、精神論的な意味合いの中で一定の枠組みができてしまうというのは皮肉なもので、「これぞロックだ」と言えば言うほどどんどん矮小化されるような気がしてしまいます。
非難している意見の中には「原発ダメだと歌ってるけど代替案がない」というのも多かったのですが、3分ソングで資源の起承転結を歌うなんてのはちょっと頭でっかちなわけで、まぁ影響力を考えたらきやすく歌うな、ということかもしれませんが…。
最初に戻って「Soap Opera」。会社勤めの退屈な生活を続ける現代人を皮肉ったコンセプトアルバムですが、それをどう打開したいいかという具体策は示されません。ただ、最後に「僕らの音楽は止まらない」という歌で終わります(アルバムの内容についてはキンクス・サイト
KINKS-SIZE KINKDOM をご参照ください)。この曖昧なメッセージは不親切なわけでなく、人々の内面についてよく考えた作者、レイ・デイヴィスによるメッセージで、これをヒントと捉える人もいるかもしれないし、自分への励まし、失っていた思いを起こさせる、などといったものかもしれません。多くの人へ発信するものだからこそ、色々な意味に取れる言葉でいい。そこには「応援する歌」でもあり「反体制」な意味合いも取れます。それに比べると、今回騒がれた歌の周辺に起こった事態は、視野の狭い世界で巻き起こっている言い合いな感じに見えてしまい、改めて「Soap Opera」の良さを感じたというわけです。
今回、歌った人が今までのキャリアでどれだけ原発に関するメッセージを放っていたかは知りませんが、一貫した思考を表現し続けるというのは本当に難しいことで、それを40年以上、現在まで表現の形をバンドに限らず変えながら、しかしブレることなく作品にし続けているレイ・ディヴィスという人はやはり素晴らしい。「皮肉屋」という一言では片付けられない奥深さとがむしゃらな姿勢、長きに渡り興味が尽きることはありません。
しかし、明確な感じで「反体制」演ってないと「ロックじゃない」と言われるうちは、「会社なんてつまらん、私はスターです」なんてナヨナヨ歌っているのはやはりロックに非ず、とお叱りを受けるのでしょうか。
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