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4番、サード、いたち野郎

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ロックにおける「全体と個」

以前に丸善ブックスが出た「現代ジャズの潮流」という本を少しだけ読みなおしてみたのだが、そこでは「芸術の前衛者は、常に個の論理を基本に置いている」とされている。それは、(この場合の前衛者は前衛音楽家に置き換えて)創作側が多数のニーズや音楽市場を意識して創作をせず、常に「自分が納得できる音楽を創造を模索」しているという意味である。
これがちょっと興味深かったので、この「全体と個」という言葉面をもじっただけではあるが、ロックの場合それはどうなるのか、このカテゴリー(一応サブメインらしい)の一発目として取り上げてみたい。一応コラムのため口調がいつもより生意気になっていますが(ですます調でない)ご了承ください(爆)


前衛音楽が完全なる「個」の論理において構成されるものだとするならば、やはりロックとは全体における音楽なのだろう、と思う。もちろんロック音楽を前衛の観点から否定するわけではないし、むしろ前衛音楽とロックの境界などというものはとても曖昧なものだと思う。ではなぜロックが「全体」という文脈で置かれるのかというと、それはロックが常に肥沃な音楽市場の中に放り込まれた歴史があり、創作者自身が意識していなくても、レコード会社やリスナー、マスコミなど、大勢の目にさらされることで「ロックがロックの外に出ることができない」状況を作り出しているからだと思う。つまり、フィルターがかかればかかるほど、音楽そのものが前衛であろうが、それがロックという域内に放り出されれば、それはロックでしかなくなる。

ロックが前衛的なものである可能性を示唆したものの一つがビートルズで、たとえばリボルバーに収録された「I'm only sleeping」では、当時では実に珍しかったとされる、テープを逆回転で再生させた音が使われている。 恐らく、この逆回転再生自体はそれほど珍しい現象ではなかったように思う。子どもがテープデッキをいじれば、こうした事故に遭うことは想像に難くない。ただ、ポップ音楽にそのような「雑音」を挿入するという発想がビートルズにしか生まれえなかった。この直後、多くのロック・ミュージシャンが同じ施しをレコードにしたのは周知の通りである。
もし、このときビートルズがこの逆回転をレコードに入れるというアイデアを思いついたとき、この「逆回転の音だけ」というような曲をレコードに吹き込んでいたらどうなっただろうか。こうした音がレコードから流れることを物珍しいと思いながらも、恐らく多くのファンはその曲の出来にガッカリしただろう。本来ならば、この逆回転をレコードにして売るということ自体前例がなく、チャートを顧みない行為として(そこに何らかの「個」の論理があったならば)真に前衛的な音楽だったに違いない。しかし、この逆回転の曲は、それだけでは独立して聴かれることはきっとなかっただろう。そこに行くつく最も大きなフィルターは、創作者自身、つまり「ビートルズ」というビッグネームであり、「全体」に周知されている「ビートルズ」というフィルターを通してでしかこの曲が聴かれることはない。そこに生まれる観念は多くの人々からの解釈であり、批判であり称賛の声である。「あのビートルズが新しい音楽を生み出した。やはり天才だ」「才能が枯渇した。まやかしだ」…結局は今まで言われてきたことと何ら変わらないのではないだろうか。ただ、売上はグッと落ちたかもしれないが…。ビートルズで例えてきたので、更にいえば、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの一連の合作アルバムは、更に幅広い多くのフィルターに通されてきたことであろう。ただ、レコード単体で、「個」の論理として存在することは、レコードが流通したその瞬間に諦めなければならない。こうしてロックは伝説、エピソード、数々のバイオグラフィとして「全体」が共有するフォルダとしてフォーマットされていく。
そしてプログレッシヴ・ロック…音楽性としては様々な点で新しいものを生み出したようにも思えるが、やはり「全体と個」で言えば「全体」の論理で完成されてきたものだと思う。それは「全体」が「プログレッシヴ・ロック」というフォーマットを共有した結果でもある。

ロックとはこうして「全体」が共有してきたフォーマットを上書きしてきた連続体と言えるのかもしれない。グラムロックやパンクなど何でもよいが、こうした「全体」におけるムーヴメントの繰り返しである。もしロックに「個」の論理が存在するならば、時間軸における、あるフォーマットとその次のフォーマットの間にしかあり得ない。しかし、それはムーヴメントの幅から見れば取るに足らない幅であるし、見方によっては、そもそもそうした隙間は存在しないのかもしれない。 だからこそ、ロックは「全体」の論理の中で、ありもしない変革を迫られ、もがき続けてきた歴史なのだ。そうした例がボブ・ディランローリング・ストーンズであり、「全体」による彼らのストーリー化が、彼らをロックの伝説に仕立て上げた。そして肝心のレコードも、そうした文脈における一つのエピソードに過ぎないと言っても過言ではない。そして当の創作者側もそれに気づいていた。そうでなければ、SGTのジャケットにディランは登場しないし、サタニック…のジャケットにビートルズが登場することなどなかったはずだ。そうした行為から見えてくるものは、ロックが「全体」の論理の中で、リスナーとアーティストが互いの距離を確認しながら「ロック」であることのバランスを保つことである。

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Jethro Tull「Aqualung」ジャケットより…「ロックと乞食」ってなんぞ?

先日、ロックブログ界の巨匠、evergreenさんの投稿を読み、そういえば…とふと思った次第で、今回は異色の投稿をしたいと思います。

それはジェスロ・タルアクアラング。僕は恐らくエヴァさん以上に(?)タルをスルーしてきたのですが、このアクアラングのジャケットは以前から面白いなぁ…と思っていました。まず油絵の絵そのものが素敵だし、アナログの盤によってはエンボス加工されていて、まるで目の前にキャンバスがあるような錯覚さえ覚えます。そして、まるでイアン・アンダースン自身をデザインしたかのような乞食…


この謎に解答しようとした、ある本に偶然出会ったのは数年前。学者が書いた本で、適当に読み散らかしていたのですっかり忘れていたのですが、エヴァさんの記事を読み、この本のことを思い出しました。


それは、以前洋泉社が企画していたシリーズ「ロックの冒険」「スタイル篇」というもの。本というよりも、各ライターの投稿を寄せ集めた、テーマごとの短編集のようなもの。その中の一つに、1992年当時、明治学院の非常勤講師をしていたという澤野雅樹氏という社会思想史の学者が書いた「乞食は愚弄する」という短い書きものがあった。この中でジェスロ・タル「アクアラング」が取り上げられているのだ…。

彼はロックを定義する場合の最大の特色として「乞食が商売になる分野」と書いた上で、ストーンズを例に以下のように書いている。


…リーダーでありながら最後まで曲を作ることもできず、まるで寄生虫のように威張っていた無能の人ブライアン・ジョーンズは、いわば乞食の中の乞食である。
…また、キースだけが、ハーレムをボディ・ガードなしでひとり闊歩したと聞いても、ひとは納得することしかできない。彼らは、乞食の出世頭なのだ。現実に存在する心理=社会的類型としての乞食ではなく、ロックという音楽におけるコンセプチュアルな人物(personage conceptuel)としての乞食である。固有の起源が自己の内にないことを自覚した民族が、ロック・ミュージシャン、より正確にいえばローリング・ストーンズなのである。
…彼らは乞食のように卑しく、本質的に泥棒なのだ。乞食の饗宴には、他の音楽のゴミ箱から漁ってきのものしかない。だが、やがて乞食は、高貴な泥棒の概念になる。

~「乞食は愚弄する」(澤野雅樹)より~


レコード・コレクターズ編集長の寺田さんもストーンズのやり方は、セッション・ミュージシャンからのパクリに近いもの…と言っていたので、大方ストーンズについての観方は、こうしたものがポピュラーなんだろうか。ここではかなり激しい書き方なので誤解を受けるかもしれないが、学者らしい冷静な分析でもある。



そんな「ロック・ミュージシャン=乞食」という観方を前提にしたうえで、いよいよジェスロ・タル「アクアラング」のジャケットに注目してみます。



これは見開きした写真で、右が表、左が裏側のジャケットになる。
表側をまず見てみる。切迫感や怒気を含んだ表情をしている乞食が、コートに何かをしまいこんでいる。よく見ると彼の後ろにあるポスターには、「クリスマス・パーティ…」らしきことが書かれている。クリスマスにまつわるものを盗んだのか。

続いて裏側。先ほどの乞食が表とは打って変わり、遠くを見つめるような疲れた表情で路地に座り込み、犬に何かを与えている。クリスマスと照らし合わせれば、七面鳥の肉でも盗んだのか。
そして裏面の右上にはストーリーのようなものが書かれているが、恐らくこれこそアルバムのコンセプト。
そこには「In the Begining Man Created God」と書き出してある。イアン・アンダースン流の激しいジョークであるけど、哲学ではこうした考え方を「経験論」と呼べる。人間は自分が経験したものしか認知できないはずである。だから神という概念は人間がつくったものでしかない…と。


上記のことは澤野氏の文にも書かれていたことで、なるほど、と納得した部分でもある。ロック音楽を経験論に結びつけようとしているのも、哲学専攻していたので興味深い。
このある種の妄想を前提に考えると、この乞食こそイアン・アンダースン本人、またはロックであり、神(ロック以外の聖域)の誕生日に、ヌケヌケと泥棒を働き大ヒットアルバムを作ってしまった。ということは、裏に描かれている、肉を食べるやせ細った犬は、我々リスナーということになるが…(笑) ロック・ミュージシャン自身が、幹のなきロックの根源を探しさまよう…このジャケットに果たしてそうした意味はあるのか。以下はまたしても文からの引用。


ジャケットの浮浪者の惨めな姿が、たとえかつてのロック(恐らくヒッピーなどの格好した類のもの)を集約していたとしても、決して当時のジェスロ・タルは自己をその中に二重化して表象することはなかった。イアン・アンダーソンは浮浪者を見舞う惨状には決して直接的に関与しないだろう。ロックは、乞食の悲惨の外側に立って、不正と矛盾を告発する方向に向かった。つまり、ロックとそれを演奏する者との分離がミュージシャンによる告発を可能にしたのであり、乞食の音楽に<音楽家/作者>という独特の第三者を作り出したのである。
~「乞食は愚弄する」(澤野雅樹)より~


このアルバムには壮大に描かれた中ジャケットがあるのだけれども、これを見てふと似ているな、と思ったものがある。ローリング・ストーンズ「ベガーズ・バンケット」だ。



上がアクアラング、下がベガーズ・バンケットの中ジャケ。ベガーズ・バンケットとは、まさに「乞食の饗宴」の意味。タルは、もしかしたらベガーズ…で自分たちに与えられたメッセージを大きく感じ取って、アクアラングを作ったのかもしれない。


こんな乞食なジャケットは他にないものか…と思い探してみると、ある二つのジャケットが気になった。ニック・ドレイク「ブライター・レイター」イギー・ポップ「ロウ・パワー」。


ニック・ドレイク「ブライター・レイター」


イギー・ポップ「ロウ・パワー」

まったく畑の違う二人だけれども、この二つに共通するのは、服飾の一部を脱いでいること。ドレイクはであり、ポップはシャツだ。
ニック・ドレイクをロックと呼ぶには未だに迷いがあるのだけれども、ロック=乞食ならば、ドレイクは相当な大泥棒野郎かもしれない。このアルバムだけでも、アメリカ南部ジャズ、ボサノバ、カントリー、スワンプ…やら多くの音楽性が詰め込まれている。ここで靴を脱いでいるのは「社交性のなかったドレイクが世間と距離を置いている様」だというのをどこかで読んだことがあるが、そんなあからさまな表現を彼が意識したようにはどうも思えなかった。彼は社交性はなかったかもしれないが、自ら人を訪ねることはしているのだ。ただし何も話さないらしいが…(爆)
彼の靴は非常に身奇麗な、高貴なものに見える。この靴こそ、イアン・アンダースンのいう「神」であり、ドレイクが奏でる根源。自分の捜し求める見えないルーツであるこの靴を、どうぞ見てやってください、と、彼はギターを持ち(自分のモノという自身があるなら、ギターも前に置かないだろうか)、うつむいて控え目に薦めている…そんな風に見えてしまう。

一方イギー・ポップ。70年代に改めて乞食の粗野な部分を強調したパンクの連中が盗んだ、パンクのゴッド・ファーザーと呼ばれる人物。
しかし、若くしてアンダーグラウンドで活躍していたポップは、実は元々ドラムを叩いていた。演奏していたのはブルース。しかし、彼は「白人は黒人を越えられない」と観念し、自分を道化師として売り込むことで変身した。彼こそ、アイデンティティを持ったモノから乞食へと変貌した、ロックの分岐点を体現しているのかもしれない。上半身を脱いだその粗野な格好は、清潔なドレイクと違って、いかにも乞食らしい乞食だけで堂々としているけれども、顔は化粧なんかで塗りたくっていて、やっぱり乞食とバレるのはまずいなぁ、というような葛藤まで見えてくる…かもしれない。そういえば、ドレイクは心の病が元で薬の多量摂取で亡くなり、ポップもドラッグ中毒で生き死にをさまよった。関連があるか分からないけれども…。


ほとんどが妄想ではあるものの、やはり一つの論理性を元にロックを自分なりに展開してみる、というのもなかなか面白い。我々「野良犬」であるリスナーからしたら、もはやロックの乞食性…盛大なロック・フェス、チャリティでの美辞麗句、地下室での猛者、ルーツを探して云十年…なんてものも、実は冷静に見分ける目や耳を持つまでに至っている気がする。そんなワザとらしさも抱合した上で、乞食が投げる七面鳥にかぶりつくのも、実は楽しいのだ。乞食とあわせればこの辺りは「人のばかり食う野良犬が、生産性のある市民権のある犬ぶる」と言ったとこなのか…。


アクアラング
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